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2014/10/03

夕日と、日の丸

秋分の日(昼と夜の長さがほぼ同じ)が過ぎて、早くも十日を数えようとしています。

日没の時間が、ずいぶん早くなってきました。 日没前の“夕日”の茜色が、本当に美しく僕の部屋(3F)から真西の方向に、今日も映えています。

 一日、無事に過ごせた事に感謝しながら、その真っ紅な太陽を見つめて眼を閉じれば、大きな“日の丸”の残像が、瞼の中で残ります。

 

 ところで、韓国仁川アジア大会での日本選手の活躍も素晴らしいですね! 金・銀・銅のメダルと共に、表彰式での“日の丸”が、とても美しく、毎日TV画面から誇らしげになびいています。

 

 それで、ふと考えたことは、他国の国旗に比べてもとてもシンプルな(おそらく太陽をデザインしたと思う)この『日の丸』の旗は、いつから日本の国旗になったのか? 誰が、どういった理由で決めたのか? という疑問でした。 

 

 少しだけ歴史をさかのぼって調べてみましたら、その答えはアメリカのペリーが黒船(大型の蒸気軍艦)に星条旗を海風に堂々と舞わせながら浦賀沖に現れ、徳川幕府に強行に開国を迫ったことが、国旗制定のきっかけとなったようです。 当時の幕府(役人)の困惑は極点に達し、結論も出ずに(先送り条件で)とにかく退去を願った。 その時にペリーは、次の忠告をして帰った。 「黒船の周りにくる日本の船は旗をつけていない!ナショナル・フラッグ(国旗)をつけていない船は沈めてもいいので、次(一年後)の時にそんな船が近づいてきたら、大砲を打ち込んで沈めますよ!」

 

 薩摩藩主、島津斉彬(しまずなりあきら)が城内の座敷から桜島に上がる朝日を見て、「あのさわやかな輝き出ずる太陽の光を以って、鎖国の悪夢を覚まさなければならぬ。日本の将来は、古代から日本人がいのちの恩として愛してきた、かがやく太陽のようでなければならぬ・・・」と考え、この太陽のマークである「日の丸」を日本全体の総船印としよう、と幕府に提案したそうです。 ところが、大半の重役は大反対で、徳川家の先祖の新田家家紋である「大中黒旗」(真ん中に黒一本の横線)をという意見ばかり。 喧々諤々の議論の中で、時の海防参与(海軍総責任者)だった、水戸の徳川斉昭(とくがわなりあき)が「日本の海防参与として、日本の総旗印は日の丸にする」と断言!天下に布告されたのが、1854年7月11日のことだそうです。 この年にはオランダから日本で最初の大船が長崎に到着しました。 勿論この船には日本で最初の「日の丸」が、ナショナル・フラッグとして船の上で美しく舞ったそうです。 <もし、多くの幕府重役の意見(多数決)で決まっていれば、おそらく今日の日本の国旗は、白地に黒の一本線の「中黒の国旗」になっていたはず・・・そうならなくて良かった! “なりあきら”さんと“なりあき”さんの先見の明というか、“なりゆき”に負けなかった意志の強さに感服・感謝ですね!?>

 

 その後の、日本で始めての蒸気船(咸臨丸/艦長・勝海舟)が船のマストに日の丸を高く掲げ、太平洋を横断サンフランシスコへ無事到着。 サンフランシスコのみならず、その後訪れる先々で、日の丸がはためいた歓迎を受ける度に、日本の使節団は胸を熱くしたそうです。 

 このように、日の丸は実は江戸時代末期から世界に翻(ひるがえ)って、たくさんの国との親和や和睦の為に、平和の使徒(シンボル)として大活躍していたことも、よく解りました。 世界各国の国旗は、戦争の時だけ識別に使われているのでは、決して無いことを改めて確認できました。

 

 夕日を眺めながら、日の丸の旗と、江戸末期に思いを馳せる初秋の夕暮れでした。

 

『 年をとると 沈んでいく日が心にしみる

    特に海に沈んでいく日の 静けさと温かさ その余光の美しさ 

      人生もかくあれと しらせてくれるありがたさよ・・・ 』 (坂村 真民)

 

 

平成26年10月 コスモス(秋桜)の候・・・        代表取締役  松元 收

 

 
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<島津斉彬の進言と徳川斉昭の英断がなければ、左の「大中黒旗」が日本の国旗になっていたかもしれない・・・>